そこで【うるくにあった映画館】と題し、シリーズでご紹介していきたいと思います。
まずは、その1『田原沖映』から。
『田原沖映』は、那覇市字田原 現在の小禄小学校横の坂を登ったところにあったそうです。
小禄で最初の ”有蓋” 劇場
1951年(昭和26)3月に開館したと思われる『田原沖映』。
当時、小禄には『小禄劇場』(字高良)がありましたが、まだ露天だったので”有蓋”の劇場としては『田原沖映』が小禄で最初となったそうです。ただ当時の沖縄の映画館は、最初は露天で、後に有蓋になるケースが多く、『田原沖映』も1951年以前に露天から始まっていたのではないかと思われます。
小禄小学校のグランド側から見た田原沖映(写真中央の切妻屋根の建物)1961年(昭和36)ごろ
建物は1階建てで、傾斜になった地形を利用した構造。
映画館前にはアイスケーキ屋、合同バスの停留所があったそう。
最初はセメント瓦葺きでしたが、台風で瓦が飛ばされてしまいトタン屋根に改装したそうです。定かではありませんが観客収容人数は150人前後だったと思われます。
田原沖映 設計図
美空ひばりや力道山、沖縄芝居も
上映時間は午後6時~11時頃まで、長時間の作品は深夜までやっていたそうです。
美空ひばりモノや力動山モノが人気だったとか。(当時の邦画は東京の公開より半年~1年ほど遅れての上映)
また、スクリーンの裏側を通路や楽屋に使用できる様に増築し、沖縄芝居も上演され、多くの有名劇団が上演したそうです。
現在では、小学校がある何気ない生活道路ですが、当時は人々が集まる賑やかな通りだったんですね。
夕方にはマイクで宣伝、スーミーをする人も
夕方になるとマイクで
「田原のみなさん、本日の映画は…」と宣伝をしていたそうです。近所の住民が気軽に観に行く場所だったのでしょう。なんだかいい時代だなぁと感じます。
また、当時の小学生でスーミー(のぞき見)やヌギバイ(無賃入場)した思い出を持つ人も少なくないようです。
跡地はその後マンションに
その後、テレビの登場(1959年沖縄テレビ、1960年琉球放送が開局)や洋画の大作が次々上映されるようになり、邦画中心だった『田原沖映』は1965年頃に閉館したと思われます。
存在した場所は、かつてあった『赤嶺三線店』と文具店との間の一帯で、しばらく更地になっていた様ですが、現在、その跡地にはマンションが建っています。
存在した場所は、かつての赤嶺三線店さんと文具店の間の一帯
現在ではマンションが建っています
『田原字誌』: 田原にあった映画館「田原沖映」當間早志さん寄稿
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