(写真は埋立て当時の漫湖・ガーナー森周辺の様子 カメラのたかちよ 上原隆昭さん 提供)
津真田・高良地域からはじまった沖縄戦後の小禄。そして新部落建設、那覇市への合併、漫湖埋立てによる鏡原町誕生まで、小禄地域にとって大きな転換期となった戦後~1950年代を『あの頃のうるく』と題し、シリーズで振り返ります。
今回は『漫湖埋立てと鏡原町誕生』について。
埋立て申請から9年余で工事完了
新部落への移住が落ち着いた1957年には漫湖埋立ての機運が再燃。埋立組合が組織され、漫湖埋立てが開始されました。
1番最初の埋立てを行ったのは宇栄原にあった「小禄運輸」で、創業メンバーの新里正義氏は当時の様子を『鏡水百周年記念誌』で次のように語っています。
「当初小禄運輸も仕事がない時にトラック1台いくらで請負って埋立てをやっていた。しかしダンプ車がないためカーゴ車に自分たちでスコップで土を積んで下ろすということですから、埋立てがはかどらず、翌日行くと潮で流されて、土がなくなっているという状態でした。」
当時の機動力・財力の問題もあり、1951年の埋立許可申請以来9年余かかりましたが、埋立て工事は1960年に完了し鏡原町が誕生。1963年には小禄高校が開校しています。
『小禄村誌』小禄村誌発行委員会
『字鏡水百周年記念誌』鏡水郷友会
『字鏡水百周年記念誌』鏡水郷友会
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