(写真は合併を伝える那覇市広報誌『市民の友』1954年9月1日号 より当時の小禄村村長 長嶺良松氏の言葉部分(那覇市歴史博物館 提供)
津真田・高良地域からはじまった沖縄戦後の小禄。そして新部落建設、那覇市への合併、漫湖埋立てによる鏡原町誕生まで、小禄地域にとって大きな転換期となった戦後~1950年代を『あの頃のうるく』と題し、シリーズで振り返ります。
今回は『那覇市との合併』について。
望まれた”近隣市村”との合併
昭和初期より人口の都市集中傾向が顕著になり、近代都市としての機能を発揮するために都市計画を実施すべきとの機運も高まり、1939年から那覇市と小禄村を含めた近隣市村の合併が具体的に話し合われていました。
那覇市の人口は増え続け、衛生・交通・産業などをふまえ、近隣市村との合併が望まれました。合併が必要な理由としては、税金の負担軽減、公共施設の統合による合理的経営、財政の弾力化の確保、那覇の人口飽和などが挙げられました。
1943年には、小禄村・真和志村・那覇市・首里市を合併し、新しい県都建設の機運が高まりましたが、時代は戦争へ突入していきました。
『大那覇市建設』をめざして
合併は戦後まで持ち越され、1954年9月1日に小禄村・首里市・那覇市が合併。小禄村は那覇市となりました。遅れて1957年に真和志市が那覇市に合併。『大那覇市』が誕生したのです。
『小禄村誌』小禄村誌発行委員会
『ウルク今昔』那覇市市民文化部文化財課 那覇市歴史博物館
『ウルク今昔』那覇市市民文化部文化財課 那覇市歴史博物館
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