(写真は造成中の田原新部落。1950年頃。那覇市歴史博物館提供)
津真田・高良地域からはじまった沖縄戦後の小禄。そして新部落建設、那覇市への合併、漫湖埋立てによる鏡原町誕生まで、小禄地域にとって大きな転換期となった戦後~1950年代を『あの頃のうるく』と題し、シリーズで振り返ります。
今回は『新部落建設』について。
5ヶ字の有志による『新部落建設期成会』の結成
戦後解放された『津真田集落』での人口集住による過密的な状況に加え、土地接収され、ふるさとを失い不自由な密集生活を余儀なく送っていた字民たちによって、新しい宅地造成を望む声は高まっていきました。
1953年1月、軍用地に土地を接収されたままの大嶺・鏡水・安次嶺・當間・金城の5ヶ字の有志により『新部落建設期成会』が結成されました。
水面下では字小禄の長田原(ナガタバル)及び不知嶺原(フチンミバル)の土地3万5千坪を各自の資金で買収。琉球政府に『新部落建設移動に対する陳情書』を提出し協力を求めました。
陳情書には、
戦後 小禄村の約70%にあたる土地が軍用地として接収され、残されたわずかな土地に1万4千人もの人が暮らす密集生活を強いられていること、
新たな宅地造成予定地3万5千坪の買収は完了したが、そこは山あり谷ありの起伏の激しいところで政府所有のブルドーザーを貸与して欲しい、などが述べられ、戦争で帰るべき土地を追われた住民が自力で新たな居住地を開発しようという悲壮な決意を示した内容となっていました。
起伏の激しい長田原と不知嶺原の開発
長田原(ナガタバル)と不知嶺原(フチンミバル)一帯は、丘あり谷ありの小禄で1番起伏が激しい地域でした。
当時の小禄村村長で新部落建設期成会会長の長嶺秋夫氏は米民政府に依頼し、ブルドーザー3台の貸与とそれを動かす将兵を演習という名目で3ヶ月無料奉仕してもらったそうです。
「米軍にとっては不必要な山岳地帯を開放するのは別段どうということはなかっただろうが、私どもにとって起伏の激しい原野を整地するのは一苦労であった。今時の様に重機があるのでもなく、スコップだけではどうにもならなかった。米軍のブルドーザーに頼らなければとてもじゃないができることではなかった。」と長嶺氏は『小禄村誌』で回想しています。
また、今の小禄小学校も、山を切り崩しての整地や校舎建設など米軍の協力を得て成し遂げたといい、「米軍に頼み込んで原野の整地をしてもらうほかない。このように小禄の戦後史は米軍を抜きにしては語れないのである」と語っています。
こうして3ヶ月ほどで整地が完了。区画整理をし、字ごとに抽選を行い宅地を割り当てました。
新しい ”安住の地”の誕生
『新部落建設期成会』結成から一年後の1954年1月、新たな土地は各字・個人に振り分けられ、小禄に『新部落』が誕生。
次々と瓦葺きの新しい住宅が建てられ、約500世帯が移り住み、新しい土地での安住の暮らしがようやく始まりました。
長嶺氏が「むつかしかった」と回想した区画整理ですが、車社会の到来を予測し東西南北に道路を走らせ、幹線道路は3間、細い道でも2間を確保(※1間は1.8m)。それらは現在でも優良な宅地として機能しています。
戦争で帰るべき土地を追われましたが、各字の字事務所(自治会館)を設け、戦前あった御嶽などの聖地も復活させ、住民らが自らの手で新しい”ふるさと”を取り戻しました。
また、新部落の建設は戦後における小禄開発の先駆けでもありました。
今も残る『新部落建設顕彰碑』
1994年、新部落期成会により字田原に『新部落建設顕彰碑』が建立されました。
新部落建設期成会会長の長嶺氏の銅像と顕彰碑には長嶺氏をはじめ委員を務めた各字の方々の名が刻まれています。
また、銅像と田原の村ガーだったフチンミガーを囲む様に立つ5本の石柱には、新部落建設に関わった5字(大嶺・鏡水・安次嶺・當間・金城)について詠まれた歌が刻まれており、変わらぬ”ふるさと”への想いが込められています。
『小禄村誌』小禄村誌発行委員会
『大嶺の今昔』那覇市字大嶺向上会
『ウルク今昔』那覇市市民文化部文化財課 那覇市歴史博物館
『宇栄原字誌』那覇市宇栄原自治会
『字鏡水百周年記念誌』鏡水郷友会
『高良の字誌』那覇市高良宝友会
『那覇百年のあゆみ』那覇市企画部市史編集室
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