(写真中央は漫湖水鳥・湿地センターの平良さん)
先日、11月4日(祝月)に漫湖水鳥・湿地センターにて、漫湖記憶さんぽ×うるくローカルプレスの共同企画トークイベント『漫湖みんなでゆんたく会~私がこどもの頃のうるくと漫湖~』を開催いたしました。
1954年に小禄村(小禄地域)が那覇市と合併して今年で70年。戦後~合併前後の1950年代は、小禄地域が大きく変わった転換期の時代。
そんな時代に、まだ子どもだった地元の方をゲストスピーカーとしてお招きし、当時の写真を見ながら小禄地域の様子や自身の思い出などをお話いただきながら、参加者の皆さんと一緒にゆんたく(おしゃべり)しようという企画。直前の告知となりましたが、定員20名満席となりました。
ウィーダー(ビーグ)や雑草が広がり、台風時には豚が流されてきたお話など
最初のゲストスピーカーは字小禄自治会員の上原信男さん。
上原さんは字小禄のご出身で、41年前、小禄1丁目区画整理事業完成後に小禄1丁目に引っ越してこられたそうです。
漫湖の一部が埋立てられる以前の小禄1丁目周辺の写真や地図を見ながら、昔の様子や、先輩方から聞いた記憶、そして生まれ育った字小禄地域のお話をしてくださいました。
この地域は袋廻原(フクルマワシバル)と言い、水気の多いシッタイジー(湿地帯の土地)で、畑、ウィーダー(ビーグ/イグサ のこと)、雑草が混然一体で広がっていたそうです。
雑草のチガヤ等も生い茂り、その上空では野鳥のひばりがピーピーと飛んでいて、ひばりがスーッと急降下して落ちた先にはひばりの巣があったそうです。
袋中寺の近くに住んでいた上原さんは小中学校の頃、この袋廻原のシッタイジーのあぜ道を通り、豊見城城跡の小禄側の斜面に登り、ススキを集め、ムーチーの頃はサンニン(月桃)を取りに行ったそうです。(ススキは束ねてホウキを作り、夏休みの宿題に出したこともあったとか。)
また、真玉御嶽(メーヌウタキ、現在の字小禄自治会館)の東西には二つの川が流れ、ハシグチ(現在の小禄病院そば、村はずれの入口からそう呼ばれた)で合流し、漫湖に向かって流れている川の先には、ティーチスーワク(水門のようなもの。現在のでいご食堂あたり)があり、そこから漫湖水鳥・湿地センター方向には護岸があり、その中程にターチィスーワク(水門のようなもの)があったそうです。護岸の先には当時小岩があり、旧暦の4月中頃にアブシバレー拝み(農作物に虫の被害が無い様に豊作祈願をすること)をしていたそうです。
護岸の中程にあった屠獣場の周辺は水はけが悪く、大きな台風があった際に浸水し、たくさんの豚がハシグチ(現在の小禄病院そば)あたりまで流されてきていたそう。
その他、真玉御嶽(メーヌウタキ)には木がたくさんあり、よく登っていたこと、昔は冷房もないのでそこで勉強をしている人もいたお話、そして真玉御嶽(メーヌウタキ)の西の川で友達とフナを釣ったり工作用のクチャ(粘土)を取ったりして川遊びをしていたお話、その川から取水した水を近くのゆーふるやー(銭湯)で使っていたお話などをしてくださいました。
今では住宅やマンション等が建ち並び、便利で豊かな地域となりましたが、
「3つの”間”(時間、仲間、空間)が無くなってきている、地域のコミュニティーが少なくなっている様に感じますね」と上原さん。
上原さん、貴重なお話をありがとうございました。
のどかだった地域の様子が目に浮かびました。
そして、昔は建物なども少なく、川や水路などの水の流れは生活していく上でも重要だったと想像されます。現在では暗渠となっていることも多く普段意識せずに生活していますが、こうしたお話を聞き、地域の地形について考えることは大切なことだと感じました。
小さい頃の地域の暮らしの様子、外でなんでも食べたお話など
続いてのお話は、字小禄自治会員の照屋義次さん。
照屋さんは字小禄のご出身で現在も字小禄にお住まいです。
照屋さんが小さい頃の暮らしの様子を中心にお話をしてくださいました。戦後の地域の生活の様子や、当時の子どもたちがどんな風に遊び過ごしていたのか、を知ることができました。
以下 箇条書きでご紹介しますが、当時の様子が目に浮かんでくるのではないでしょうか。
【地域の様子など】
・真玉御嶽(メーヌウタキ、現在の字小禄自治会館)には軍の陣地豪がまだ残っていた、そんな時代
・チィーヤー(津屋)/ クビグヮー には戦後、遺骨が集めてあったと聞いていた
・漫湖沿いの護岸は、大雨で漫湖に土砂が流れるのを防ぐため明治・大正に造られた
・大雨の際、今のビッグワン小禄店あたりまで水が浸水していた記憶がある
・マチヤグヮーが何軒かあった
【生活や遊び、食べ物など】
・我が家は茅葺きの家で、6畳ほどの一間と2畳ほどの裏座(クチャグヮー)、土間の台所があった。台所には鍋を載せる石が3つあった。一間と土間の間に電灯(電球)が一つぶら下がっていた。
・上下水道は無く井戸水で、どこの家にもカー(井戸)があった。自分の家では、お米を研いだり、洗い物などすべて隣の親戚の井戸水を使わせてもらっていた
・当時のお米は「カシュー米(カルフォルニア米)」。しかも粒が割れた品質の悪い米。小さな石ころや虫がいるので、炊く前にまずそれらを取り除いてから米を研ぎ洗いして炊いていた
・残ったお米で糊を作り、シャツの糊にしていた
・食べるものが無いので、イモばかり食べさせられた。大きな鍋(シンメーナービー)でたくさん炊くと数日経つと発酵してきて、納豆の様に糸をひく様な状態になったが、物の無い時代なのでそれでも食べていた
・父親は軍作業の仕事、母親はバーキ(竹で編んだ籠)で肉を売って商いをしていた。軍作業で手に入れたのか、Zippoライターがあった。
・ガーナージュー周辺の干潮時の干潟でよく貝採りをした。5センチほどのアンチャン(二枚貝)が採れたが、海(ガーナージュー)に行ったと母親に知られると叱られるので、取ったアンチャンは家の隣にあったゆーふるやー(銭湯)のおじさんに焼いてもらって食べた(証拠隠滅のため)
・食べ物があまり無い時代で、外で食べられるものはなんでも食べた。
<外で食べたもの>
・よその畑からキュウリ、スイカ、サトウキビなどを盗んで食べた
・ススキの穂
・川で採ったフナ
・セミ
・道から拾った梅干しを割って、中の身 その他いろいろ
照屋さん、貴重なお話をありがとうございました。
当時のごく一般的な暮らしの様子を感じることができました。そして、物が無い時代にたくましく生きる子どもたちの様子も感じることができました。
(※ガーナージューとはガーナームイのこと。地域によって呼び名が微妙に異なっていた)
ガーナームイのそばで泳いだり、パイン工場でのエピソードなど
最後のお話は、鏡原町内会員の新里昌市さん。
鏡原町の第1期の埋立て後に移り住んだという新里さん。
ガーナームイ周辺が埋立てられた当時の写真を見ながら、漫湖や鏡原町の昔の様子を中心にお話をしてくださいました。
移り住んだ当時はまだ ”無番地” で「小禄埋立て地」と呼ばれていたそうで、1960年ごろに「鏡原町」となった記憶があるそう。
写真を見ると、ガーナームイのそばに水溜りの様なものが見えますが、
「雨水などが溜まった ”ため池” の様なもの。昔はプールなんて無いので、ここで泳いでいました。」と新里さん。
照屋さんと同じく、漫湖で貝などを採って食べたそうで
「漫湖に流れてくる缶カラに漫湖の水を入れて貝を炊いて食べたりしました。材木というか、燃やす材料もそこら辺にありましたね。親からは、カマル(お化けのようなもの)に足を引っ張られるから海(漫湖)に行くなって言われていました」。
昔の漫湖を知る地元の人は漫湖のことを”海”と呼んでいた、とよく聞くのですが、やはり新里さん周辺の人も、漫湖というよりは ”海” とか ”国場川” と呼んでいたそうです。
漫湖では ”はえなわ漁” もしていたそうで、そこからこっそり魚やうなぎを取って食べたことも。
「当時鏡原町にはチンチラーグヮ(夏の渡り鳥だそう)がいたりして、自然が残っていていいところだったです」(新里さん)
また鏡原町には”パイン工場”があったそうです。
沖縄本島北部で採れたパイナップルを缶詰にしていた工場で、現在の県道7号沿いにある大見謝制服店(鏡原店)の裏側あたりにあったのではないかと言われています。
「パイン工場で缶詰にした後の残った部分(芯のまわり?)がどんどん積み上げられていくんだけど(廃棄のために)、それをこっそり食べていました。大きなハエがすごいから、子どもながらになるべく下の方にある綺麗そうなものを食べようと手を突っ込んでいたけど、上にどんどん積み上げられていくから、よく考えればどこを食べても同じなんですよね(笑)」
このパイン工場で盗み食いをした、という子どもたちは多くいたようです。
新里さん、貴重なお話をありがとうございました。
ガーナームイのそばのため池で泳げた時代。自然豊かな漫湖の魚や貝を採って食べたり、パイン工場でのエピソードなど、ほっこりとした気持ちになりました。
3人の皆さんの楽しいお話を聞いた後には、会場の参加者からの質問など、ゆんたくしながら
・昔は各家庭でヒージャー(ヤギ)を養っている家が多かった
・ウサジ(ウサギ)は早く育ってお金になったので飼ってる家が多かった
・昔は原種のアカバナー(ハイビスカス)が生えていて、花の蜜を吸ったりしていた
(※原種は少しピンク色で小さめだそう)
・田んぼと畦道の間にウンチェー(エンサイ、空芯菜)が生えていた
・ユーナ(オオハマゴウ)の葉っぱをトイレットペーパーのように使っていた
・古波蔵は昔、豆腐が有名でたくさん作っていたが、漫湖の海水で作っていた(昔は家庭でも豆腐を作り、漫湖の海水が利用されていた)
などのお話もしていただきました。
お三方と年齢が近い参加者は懐かしそうに、そしてその時代を知らない若い世代の参加者は興味深くお話を聞いていらっしゃいました。
参加者アンケートよりご紹介
”ゆんたく会” というイベントタイトル通りに、和やかに時間が過ぎていきました。参加者の皆さん、ありがとうございました。
イベント終了後に書いていただいたアンケートから、主だったコメントなどをご紹介します。
・”鏡原”の由来が知りたい。また企画してください
・トンボのメスを売った代金で映画が見られた、という話が印象的。全体的に雰囲気が良くてなごんだ。みんな楽しそう。
・一つ一つの出来事が楽しかった。3人(ゲストスピーカー)の掛け合いが楽しかった
・昔の地図と今の地図が手元にあると地域のことがわかりやすいかも
・素敵なイベントでした!
・近くに住んでいるので、今と昔の様子を比べながら聞いていて面白かった
・昔の生活、生き物、遊びなどが聞けてよかった
・地域住民として年上の人々のお話は語り継ぐ必要があるなーと思います。楽しそうにお話されてるのを見るのも楽しい。
・地元で生まれ育ったが、今回いろいろなお話を聞いて地元の歴史や文化をもっと知る様にしていきたいと思った
・地元の方から昔の地域の話をお聞きするのは初めてで、とても新鮮でした。楽しかったです!
最後に
今回、ゲストスピーカーとして貴重で楽しいお話をしてくださった 上原信男さん、照屋義次さん、新里昌市さんに心より感謝し御礼申し上げます。本当にありがとうございました!
日頃より地域に寄り添いながら、地域と漫湖の自然について情報発信をしている「漫湖水鳥・湿地センター」の皆さんとこうした地域イベントを開催できたことで、地域で活動する私たちと地域住民の方々とが触れ合い、地域について考えるきっかけの一つとなったかと思います。
今後もこうしたイベント等を通して、地域の皆様と地域について知り、今後の地域のあり方を考えていければと思います。
皆様 ありがとうございました。
【関連企画写真展】
トークイベントに関連した写真展を開催中です。
期間:
2024年12月1日(日)まで(漫湖水鳥・湿地センター1F)
2024年11月29日(金)まで(うるくローカルプレス事務所内)
場所:
漫湖水鳥・湿地センター1F(豊見城市字豊見城982)9:00-17:00(火~日)
うるくローカルプレス事務所(那覇市字宇栄原925番地 若葉荘1-3)9:00-17:00(月~金)
共催:漫湖水鳥・湿地センター管理運営協議会、うるくローカルプレス(大鏡建設株式会社)
協力:高良広輝氏(字小禄自治会)、上原隆昭氏(カメラのたかちよ)、字小禄自治会(写真提供)