(写真は津真田の高台から望む小禄村役場(写真奥)。『大嶺の今昔』より)
今年、小禄地域(旧小禄村)は那覇市に合併して70周年を迎えます。津真田・高良地域からはじまった沖縄戦後の小禄。
そして新部落建設、那覇市への合併、漫湖埋立てによる鏡原町誕生まで、小禄地域にとって大きな転換期となった戦後~1950年代を『あの頃のうるく』と題し、シリーズで振り返ります。
まずは『津真田集落』について。
字高良の一部と字宇栄原の津真田地域一帯の解放
終戦後の1946年(昭和21)2月に小禄村が解放されましたが、小禄には飛行場や軍施設などがあるため、実際に解放されたのは字高良の一部と字宇栄原の津真田地域一帯に限られていました。
これらの地域は、米軍の管理下におかれ、自分の土地に戻れない人々に対して市町村や米軍の権限で他人所有の新たな居住地を割り当てる「住民再定住計画及び方針」により ”割当土地”として指定され、自分の土地に戻れない大嶺・鏡水・安次嶺・當間・金城の人々が移り住みました。
小禄地域では比較的人口も少なく、未利用の山野が多く残る地域であったため割当土地となったようです。
小禄村の中心として一大集落に
外地や疎開先からの引揚者も同地域に集まってきて、一大集落を形成するようになり、戦後の小禄村が次第に形作られる様になりました。
そしてこの地域のことを、地域の原名(ハルナー)から『津真田』と呼びました。
小禄村役所(現小禄南公民館敷地)を中心に、周辺には小中学校、食糧配給所、診療所、露天劇場等も出来るなど、まさに戦後の小禄はここから始まったのです。
(小禄劇場についての詳細記事はこちらでご覧ください)
また、当時は津真田(現小禄南公民館そば)にあった高良小学校の校歌には
「津真田の丘にそびえたつ 清く明るい学びやよ」とあります。
小禄村全人口の約70%が集住し超過密的に
米軍政府から支給される資材を使って『規格住宅』と呼ばれる簡易住宅が次々と造られましたが、当時2千人を想定していた居住地に1万人を超える村民が集住。
トタン葺き、茅葺など建てられるだけの建物を建て、ひとつ屋根の下に3世帯が同居するのも珍しくなかったほど、超過密的な状況となっていました。
食糧の供給も大変だったと思われ、1948年(昭和23)には巨大な食糧需要に対応するため、字高良津真田に市場設置の申請も出されています。
字鏡水が漫湖の埋立て申請を提出
津真田での大変な生活の中、字鏡水は安住の地を求めるべく1951年に字小禄後原地先の公有水面埋立申請を小禄村議会へ提出し決議され、当時の沖縄郡島知事より漫湖埋立てを許可されました。
この動きが、のちの鏡原町誕生へと繋がっていくこととなります。
今も残る、かつての『津真田』
当時、集落の中心地として役場があった小禄南公民館付近には、今も古い建物が多く残り、かつての面影を残しています。
小禄南公民館そばの高前原公園の一角にある『津真田カー』。
”津真田” という名が残っているのはここだけかもしれません。
『小禄村誌』小禄村誌発行委員会
『大嶺の今昔』那覇市字大嶺向上会
『ウルク今昔』那覇市市民文化部文化財課 那覇市歴史博物館
『宇栄原字誌』那覇市宇栄原自治会
『字鏡水百周年記念誌』鏡水郷友会
『高良の字誌』那覇市高良宝友会
【バックナンバー】
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