宇栄原団地の建設が始まったのは、1964年。
沖縄戦から19年後、日本復帰の8年前という年です。
アメリカ世の沖縄では、車は右側通行、通貨はドルが使われていました。
日本は高度経済成長期の真っ只中で、東京オリンピックが開催された年でもあります。
宇栄原団地の歴史を振り返る特集連載『宇栄原団地ヒストリー』。
第2回は、過去の資料や宇栄原団地自治会・会長の前花友克さんのお話とともに、団地の建設当初のことを振り返っていきたいと思います。
宇栄原団地建設の背景は、戦後の深刻な住宅難
宇栄原団地が建てられた背景には、戦後の住宅難がありました。
当時の那覇市には、沖縄戦や基地建設によって住む場所を失った人や仕事を求める人が、本島北部や離島からも押し寄せ、住宅不足が深刻だったそう。
戦前は10万人前後だった那覇市の人口は、30万人ほどまで増えたといいます。
急激な人口増加と戦後の復興による好景気の一方で、貧富の差が拡大。
貧困に苦しむ人も多く、いつしか那覇市内ではスラム街が形成されていきました。
スラム街に集まってきた人々は、小屋を建てて商売を始め、水上店舗と呼ばれました。
1962年3月に発行された那覇市の広報紙「市民の友 第139号」には、当時の那覇市長 西銘順治氏がガーブ川周辺のスラム街を視察したという記事が掲載されています。
水上店舗にはバラック小屋が密集しているので火災などが起こると危険なうえ、排水もなく不衛生だったそう。
また、沖縄の観光事業を発展させていくためにも、都市部のスラム街解消は大きな課題だったといいます。
そこで、こういった住宅問題を解消するため、那覇市内の各地で団地が建設されました。
1956年(昭和31年)に沖縄で最初の団地として若狭団地が建設され、その後、宇栄原団地と同時期には首里の久場川団地や識名団地、樋川団地などが続々と建てられました。
マンモス団地の建設は脚光を浴びた。
宇栄原団地がある場所は、団地ができる前は吹切原(フッチリバル)という原っぱだったそう。
集落からは少し離れていたというその土地を切り開き、宇栄原団地の建設が始まりました。
1965年(昭和40年)に撮影された写真を見ると、団地の周辺には建物がほとんどありません。
給水塔がある場所から海軍壕公園方面に向かって撮影されたもので、団地の後方に見える野山には、今では宇栄原小学校や海軍壕公園などがあります。
完成時には、全部で45棟、戸数にして1,004戸、およそ4,000人を収容する規模となった宇栄原団地。
その当時、那覇市内にあった5つの団地(若狭、安謝、識名、久場川、宇栄原)のなかで最も規模が大きく「マンモス団地」と呼ばれ、脚光を浴びたといいます。
当時の間取りは2DKと3DKの2タイプ
1965年4月には、第1期工事で完成した280戸分の入居募集が行われました。
住居は第1種(12坪型)と第2種(9坪型)の2タイプがあり、この時はどちらも2DKだったようです。
復帰前なので当然といえば当然ですが、家賃はドル。
この時の家賃は、第1種(12坪型)が13.21ドル、第2種(9坪型)が9.35ドルだったそう。
当時の下宿や長屋は「風呂なし・トイレは共同」といったところもあり、団地と同じような設備の民間アパートに住むには、団地の3~4倍もの家賃がかかったのだそうです。
また、市営住宅に入居するには「市内に住所を有すること、住宅に困窮していることが明らかなものであること」といった条件が設けられていました。
収入についても、第1種は「65ドル以上100ドル以下」、第2種は「65ドル以下」という基準がありました。
1960年代の沖縄の大卒初任給は60~70ドルだったそうですので、生活に困っている世帯のために建てられたとはいえ、第1種(12坪型)は誰でも入れるほど安いわけではなかったようです。
当時の為替レートは、1ドル=360円の固定相場制でした。
参考までに、このレートで家賃を円に換算すると、第1種は約4,800円、第2種は約3,400円。
また、1960年代の大卒初任給60~70ドルは21,600~25,200円です。
その後の工事では、第1種として3DKの部屋も作られました。
3DKが5人家族向け、2DKが4人家族向けとして設計されたそうです。
【10/25追記】 記事公開後、5階建てのB-9棟が写っている写真を提供いただきました。 右側手前に4階建ての棟があり、その奥に見える5階建ての建物がB-9棟です。
写真提供:高良広輝さん(2008年9月撮影)
本土の「団地族」と宇栄原の「団地族」
宇栄原団地建設の数年前から、本土では団地に住む人を意味する「団地族」という言葉が生まれ、一種の社会現象になっていたそう。
本土では1955年(昭和30年)に『日本住宅公団』が設立され、高度経済成長期の昭和30年代~昭和40年代にかけて団地の建設が進みました。
日本住宅公団が運営する団地では、高い収入基準をクリアした人々が、当時「三種の神器」と言われた家電「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」を買いそろえ、洋風の生活を送っていたそうです。
そんな彼らに対する憧れや興味から「団地族」という言葉が生まれ、ブームになりました。
1966年(昭和41年)11月発行の那覇市広報紙「市民の友 第194号」に掲載されている記事には「急増した団地族」という見出しがついています。
この記事は、第2次の入居募集が終わり、560世帯、2000人近くが暮らすようになった宇栄原団地について書かれたものです。
同じ団地とは言っても宇栄原団地は市営住宅なので、本土の「団地族」のような高級な暮らしとはいかなかったようですが、安い家賃で設備の整った宇栄原団地での生活は、やはり周囲からうらやましがられたそう。
1967年(昭和42年)2月に行われた第3次入居募集では、296戸の募集に対し990件もの応募があったそうです。
希望者が殺到し、最終日には入居受付が夜の9時すぎまでかかったほどの人気を誇りました。
宇栄原団地の昔と今
さて、今回は宇栄原団地の建設当初のことを振り返ってきました。
戦後の住宅難解消のために建てられた宇栄原団地は、建設当初からマンモス団地として注目を集め、規模が大きくなるごとに人気も加速していきました。
建設から60年近く経った2021年。
時代の雰囲気も大きく変わり、宇栄原団地は建替工事によって生まれ変わりつつあります。
1965年(昭和40年)に撮影された写真です。
完成したばかりの4階建ての団地が並んでいます。
2021年現在、このエリアは建替工事が終わり、高層化した団地が並んでいます。
1968年(昭和43年)に撮影された公設市場の入口付近。
植栽がなく、道路も舗装されていません。
公設市場の周辺には古い建物が残っており、かつての面影が感じられます。
このエリアも数年以内には取り壊されるそうで、この姿を見ることができるのもあとわずかです。
■おまけ:1964年、奥武山に聖火が来た!
宇栄原団地の建設が始まった1964年は、東京オリンピックが開催された年でもあります。
アジア初のオリンピックとなった、この大会。
開催が決まった時には、日本中がお祭り騒ぎで喜んだといいます。
東京では、五輪開催に向けて交通機関や競技場などが目まぐるしく整備されていきました。
当時の沖縄はアメリカ施政権下にありましたが「沖縄にも聖火を届けてほしい」という人々の強い要望が叶い、沖縄にもオリンピックの聖火がやってきました。
奥武山公園には聖火台が用意され、市民は盛大に歓迎したそうです。
宇栄原団地が建設されたのは、第二次世界大戦で敗戦国となった日本でオリンピックができるまでに復興し、さぁこれからという熱に帯びた、そんな時代だったのです。
それから57年。
宇栄原団地が建て替えという節目を迎え、この特集連載が始まった今年2021年にも、東京オリンピックが開催されました。
偶然の一致に、時代の流れとともに不思議な縁を感じます。
<バックナンバー>
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【宇栄原団地】(宇栄原市営住宅)
那覇市宇栄原17−890