戦後すぐ、山下町は”ペリー区”と呼ばれていましたが、そこに『ペリー劇場』という映画館がありました。
その跡地は現在『ペリー保育園』となっており、『ペリー劇場』の初代館主のお孫さんで『ペリー保育園』園長の賀数博さんにお話を伺うことができました。
戦後の復興を担う人々が娯楽を楽しんだ
戦後この一帯は米軍需物資や民間物資の荷役作業のための特殊行政区(通称みなと村)として多くの作業隊とその家族が住んでいました。遠くはヤンバルから移り住む人もいたといいます。
そんな時代に祖父の清助さんが仲間と共同で土地を買い、最初に始めたのは相撲場。それから芝居小屋として営業を始めました。
その後、清助さんの息子・政英さんが映写技師の免許を取得し映画上映がスタートしたそうです。沖縄芝居の巡業の合間に石原裕次郎や小林旭などの映画が上映されました。
「大変な時代だから軍作業も生活も大変だったと思います。でもそんな中でも少しずつ芝居や映画を楽しめるようになっていたんじゃないでしょうか。」(博さん)
スピーカーで宣伝。役者が泊まる部屋もあった
幼稚園生だったという博さんが当時の劇場の様子を教えてくださいました。
「劇場はコンクリート瓦屋根で屋根の上にスピーカーがあって、昼12時ごろからその日に上映する映画の音楽を流して”今日はペリーで●●映画を上映します”みたいな感じで宣伝していました。芝居の宣伝は夕方6時くらいからで、小さい車にスピーカー積んで役者さんがまわって宣伝していました。」
「客席は木製の椅子で、パッタンと折りたたむ感じだったと思います。劇場の裏に水タンクがあって、役者さんがそこでドーラン(舞台化粧)を落とすんですが、その匂いは今でも覚えています。まだ幼かったから、何で顔を洗ってるんだろうって思っていました笑」
舞台(スクリーン)裏には役者さんが寝泊まりする部屋もあったそうです。
※1969年時の常設館映画娯楽税資料によると観客収容人数は495人(立見205、座席290)だったようです。
また、当時『ペリー劇場』へ続く通り入り口には宣伝を兼ねた門のようなものがあり
「そうそう、こういう門がありました。ポスターは手描きで長男が描いていたと思います。」
周辺にはゆーふるやー、商店などがあり賑わっていた
劇場のすぐそばにはゆーふるやー(銭湯)があったそうです。
「高い煙突があって、芝居や映画を見てお風呂に入る人も多かったと思います。役者さんも芝居の後に入っていましたよ。銭湯はその後”ペリー美容室”になりました。」
劇場の周囲には多くの商店があり、大変賑わっていたそう。
「この辺は”ペリー区”だったから、ペリーと名のつくお店が結構ありました。」
今でもペリーと名のつくクリニックなどが、僅かですが残っています。(この一帯がペリーと呼ばれる所以については調査していきたいと思います)
また、現在の山下南交差点付近には市場のようなものがあり
「小さいお店が30近くはあったと思います。さしみ屋とてんぷら屋によく買いに行かされたのを覚えています。」
戦後の復興に向けて賑わう地域の様子が目に浮かんできます。
1970年代にアパート・保育園の複合ビルに
1960年代半ば、2代目館主・政英さんの奥様が建物の一部を使って保育園を始めました。
きっかけは劇場の近くで起きた子どもの交通事故で「地域の子は地域で育てたい」という想いからだったそうです。
その後、老朽化した劇場建物はアパート・保育園の複合ビルに建替えられました。
このビルには劇場の外壁の一部などがそのまま使われていましたが、この建物も老朽化により現在の建物に建替えられました。今も『ペリー保育園』には子どもたちが元気に通っています。
この一帯は細く入り組んだ道が多いですが、博さんによると ほぼ昔の道のままだそう。
戦後復興最中のまだまだ大変な時代。ここに劇場ができ、人々は芝居や映画を楽しみ、この坂道にも多くのお店があり賑わっていたんですね。
動画でもぜひご覧ください!
【ペリー劇場】
那覇市山下町31番19号
(現ペリー保育園)
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