うるくのコネタ
戦前、戦後のうるくの古写真をもとにご紹介する歴史ネタや、普段通り過ぎてしまいがちな史跡などをご紹介。うるくの昔と今を知るきっかけに、そしてアーカイブとして残していければと思います。現在の奥武山付近に、戦後のわずか3年間だけ存在した『みなと村』があったそうです。
米軍統治下の那覇港湾作業のための特殊行政区
『みなと村』は沖縄戦後の米軍統治下において、現在の那覇港周辺地域に作られた港湾作業のための特殊行政区で、1947年から1950年までの3年間だけ存在しました。
戦後間もなくは那覇港の米軍需物資や民間の食糧品等の荷役作業を日本軍捕虜が行なっていましたが、捕虜の解放と本土への引揚げにより、沖縄県民約2千人の那覇港湾作業隊が組織されました。
この作業隊とその家族の生活・労務管理を円滑に行うため、1947年(昭和22)に『みなと村』が設置され、初代村長に港湾作業隊の指揮を執っていた国場幸太郎氏が就任。
役場庁舎には奥武山の世持神社の建物が使用されました。
総面積23万坪、人口約1万人。規格住宅が建ち並んでいた
『みなと村』は那覇港と漫湖に挟まれる様に位置し、奥武山を中心にペリー区(現在の山下町)、楚辺、松尾、壺川などからなる大きな村でした。
約1万人ほどが暮らし、米軍のテントカバーで作られた規格住宅が1世帯に1棟ずつ割り当てられ、区域内に建ち並んでいたといいます。学校や診療所などもあり大変賑わってそうです。
わずか3年で村は解消。世持神社には今も石標が
1950年(昭和25)になると港湾作業が民間業者の請負制となり、村存続の意義がなくなり、同年に那覇市に合併し『みなと村』は解消されました。
世持神社の鳥居横には『みなと村役場跡』として今も石標(説明板)が設置されています。
参考:那覇市歴史博物館webサイト
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