(写真は、申請場所見取図。当初は”なるみ湯” という名称で申請。後に ”でいご湯”に改名)
本土復帰前のアメリカ世の時代、1963年(昭和38)~66年(昭和41)にかけて建設された宇栄原団地(宇栄原市営団地)。収容人数4,000人規模のマンモス団地で小禄の中心地として賑わっていた頃に、団地に隣接して 『でいご湯』という ゆーふるやー(銭湯・公衆浴場)があったのをご存知でしょうか。
当時、お母様を中心に家族で『でいご湯』を経営していたという宇栄原在住の大城さんにお話を伺うことができました。
(※宇栄原団地は2008年(平成20)から建替工事が進み、近代的な団地へと生まれ変わっています。)
家族ぐるみで『でいご湯』を経営していた
『でいご湯』は1966年9月21日に公衆浴場として営業開始届が出されています。宇栄原団地が完成し、入居が始まったと同時期に営業を開始したと思われます。
「団地がたくさん出来たけど、銭湯などの施設が無いということで始めたと思います。父がまだ定年前だったので、母が経営するという形でした。当初は 長女の名にちなんで ”なるみ湯” という名称だったんですが、からかわれたりしたら可哀想だから、と後から ”でいご湯” に改名しました。」(大城さん)
当時、宇栄原団地は ”あこがれ の住まい” といわれ、各戸に水洗トイレ・シャワーが完備されていましたが、当時の水道事情からか、シャワーからお湯がなかなか出なかったそうです。そうした事情から、団地に住む多くの住民が銭湯に通っていたそうです(宇栄原団地に長年お住まいの前花会長談)。
→ 宇栄原団地ヒストリーvol.3 『団地生活は庶民の憧れ(憧れの団地族)』より
そんな時代的な背景もあり、連日たくさんのお客さんが『でいご湯』を利用していたそうです。
「営業中は母が番台に座っていましたが、営業が終わった夜の10時くらいから、毎日家族みんなで掃除してました。休みは無かったです。」(大城さん)
当時、大城さんは会社勤めをしていたそうで
「車を運転する人はまだ少ない時代だったけれど自分は車で通勤していたので、仕事帰りに国場ベニヤさんに寄ってボイラーの燃料にするためのラワン材(の皮など)をもらってきたりしていました。それをボイラーマンが干してから燃料にしていました。」(大城さん)
ボイラーの燃料は廃材から始まってラワン材、それから重油→石油に変わっていったそうです。
銭湯で使用する水は、
「近くの山を越えた所に軍が掘った井戸があって、その井戸からポンプで汲み上げて使用していました。足りない時はトラックで買っていました。」(大城さん)
マンモス団地だった宇栄原団地の住民以外にも、周辺に住むたくさんの人が『でいご湯』を利用していたと思われますが、瞬間湯沸かし器が徐々に一般家庭に普及し始めたこともあり、時代の流れとともに『でいご湯』も廃業となりました。
当時の様子が分かる写真がないか探していただいたのですが、残念ながら残っていませんでした。しかし写真を探していた際に偶然『でいご湯』に関する当時の書類が見つかったとのことで、見せていただくことができました。
設計図や開業に関する書類
営業許可証や営業開始届、設計図などの書類がファイルにまとまっていました。
A1サイズ位の設計図もありました。
『でいご湯』はコンクリートの平屋建てだったようです。
そして番台を境に、男湯・女湯に分かれ、それぞれ25㎡ほどの広さの脱衣室・浴室があります。
浴槽は楕円だったようです。
上の図面 ”ゲンカン” と書かれた入口の所に ”番台” があります。内地の番台は浴槽の方向を見て座るところが多いですが、でいご湯はお客さんが入ってくる方を見て座っていたそうです。
また、書類の中には琉球政府の収入印紙が貼られているものがありました。
他にも、浴場と水洗トイレの排水処理が困難だったようで、宇栄原市営団地の排水路使用の申請書などもありました。
写真で見るのとはまた違って、こうした資料から当時の環境や時代背景などを知ることができ、大変興味深かったです。
実は、今も当時の建物は健在
お話を伺いながら、設計図などから当時の建物の様子を想像していると
「建物は当時のまま今もありますよ」と大城さん。
早速、大城さんにご案内いただきました。
場所は宇栄原4丁目、ローソン宇栄原団地前店の通り、1Fにまる金食堂がある建物の隣です。
先述の設計図と比べると、ほぼ当時のままの印象です。
建物は現在、宇栄原に本社がある(株)あさひ(沖縄料理の食品製造・販売会社)の『あさひバイオ食品研究所』として使用されており、ここで豆腐ようなどを製造しているそうです。
もしかしたら浴室部分のタイルなどが残っているのでは…と期待しましたが、食品を扱っているということで、内部を見学することはできませんでした。
入口は通り沿いではなく、隣の建物との間側にありました。
中央の柱など、現在もほぼ当時のままの印象です。
なぜ入口が通り側ではなく隣の建物との間にあるのか不思議に思っていると、
「隣の建物はでいご湯を始めてしばらくしてから建てたんです。」と大城さん。
かつて宇栄原団地そばに ”ゆーふるやー” があったということは、宇栄原団地の建設当時の資料や、宇栄原団地自治会長の前花さんからのお話で知っていたのですが、今回、家族で経営していた大城さんにお会いでき、『でいご湯』という名前だったこと、そして当時の様子を知ることができました。
本土復帰前の、少し遠い時代にあった『でいご湯』ですが、建物はまだ現役で真新しい宇栄原団地と共にあり、50年以上前の時間が今に繋がっているのを感じました。
大城さん、奥様、貴重なお話と資料をありがとうございました。
また、本記事最初に掲載した なるみ湯(でいご湯)の申請場所見取図には、でいご湯のすぐ近くに『宮里酒造』(現在は小禄645に移転)、そして『新部落』も記されており、うるく地域の歴史的にも大変興味深く、貴重な資料です。
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【でいご湯跡】
那覇市宇栄原4丁目7-2
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